【第六感紹介ブログ】肥田春充氏の正中心力による事例②(念力・念動力)

ノンフィクションファンタジー
ArtapixelによるPixabayからの画像

前回に引き続き、肥田春充氏の正中心力による事例をご紹介いたします。

絵本「ちいさなまどに ぼくがいる?」(2024/3/3 発売)
"怒"の原因を探り、人を思いやるこころを取り戻すきっかけになるかもしれません。 小さな子供さんから大人の方まで読んでいただける内容になっていますので、是非ご覧ください!
【事例3】20~50個のサイコロの出る目の合計が先に分かる

・サイコロの六面に3桁の異なる数字を書き、それを20~50個程度用意する(全ての面の数字は異なる)
・これを全て板に乗せてから、上に放り投げる。
・バラバラと板の上や机、畳の上にサイコロが落ちてくる
・その時、全サイコロの上面の数字の総和と、下面の数字の総和を瞬時に書く
・計算すると完全に数は一致する
・顕著な時はまだサイコロが床に落ち切っていない内に書き終わっている

「下面の数字の総和を瞬時に書く(通常のサイコロとは異なり上面の数字と下面の数字に関係性は無く、見えないはずの下面の数字が分かる)」や「床に落ち切っていない内に書き終わっている」など、正に予知能力による事象だと思います。
前回ご紹介の事例(1)②「時には外国の様子が見え、それは事が起きる前に見えることもあった」と同様、現時点では確定していない事象(情報)を先取りして感知しています。

guntherによるPixabayからの画像

なおこのサイコロの事例は、「事象の流れを推測する」でお話した”事象の流れを因果関係を元に推測する”のとは異なるメカニズム・ルートで「結果」に辿り着いていると思います。
因果関係を元に事象の流れを推測するのは「プロセス」を経て「結果」に辿り着いているのに対し、肥田春充氏の事例は、いきなり「結果」を感知していると思われるからです。

【事例4】念動力と思われる事例

・薄い短冊形の紙を、コの字になるよう2か所を折り曲げる
・曲げた上の部分と下の部分にそれぞれ針金の輪っかを引っ掛ける
・上の輪だけを手で持つ
この状態では、下の輪の重さで短冊の紙の折り目は伸びて、下の輪は落ちてしまいます。

しかし、肥田氏は下の輪に更に約20kgの石を紐で十字に縛り、正しい姿勢を決めて持ち上げると、紙の折り目は伸びないで、重い石が持ち上がるのです。
(氏いわく「臍下丹田に、腹と腰の力を同等に働かして球を作る、その中心を、開いた両脚の中心を結んだ直線の延長が、地球の中心へ行くよう、つまり、三つの中心が一直線上になるようにすると、宇宙の力が働いて、それが紙、針金に伝わり、強力なものになる」とのこと)

この事例がわたしが念動力の存在を信じる根拠になっています。
※念動力は”念で動かす力”ですが、これは”念で動かないようにする力”ですので正確には”念止力”かもしれません。

この念動力と考えられる事例(4)ですが、他の事例(1)(2)(3)やわたしがこれまで見聞きした事例、ましてやわたしが僅かながら体験したことと決定的に異なる点があります。
それは、他の事例はあくまで「情報」に対する事象であるのに対し、念動力は「物体」に対する事象であることです。

また個人的見解として、物体に対して影響を与える念動力は簡単に発現できるものでは無く、また肥田春充氏の言う”宇宙の力”を働かせることができて初めて実現できるものと捉えています。
”宇宙の真理と一体”となって初めて発現できるような力を持つ人物は、例えば仏教的な言葉でいうところの”大我”を持ち合わせてるような人物であるはずで、そうでないと思われる人物がTV番組などで超能力を謳ったところで本物であるはずが無く、このためほとんどのケースにおいて否定的な見方をしてしまいます。

ではなぜ肥田春充氏の事例は信じることができたのかと申しますと、氏の発言・考え・行動を読んだ時のわたしの中での納得感・矛盾の無さや時代背景、また何より文面より感じ取れる熱量、及び正に大我を持ち合わせた人物と考えられることから、信じざるを得ないと感じたためです。
これらの根拠は全てわたしの主観に過ぎませんが、是非、肥田春充氏の著書「聖中心道・肥田式強健術・天真療法」、及び甲野善紀先生の著書「表の体育 裏の体育」をご覧になり、体感して頂くことでその答えを見つけていただきたいと思います。

コメント

タイトルとURLをコピーしました