前回のお話で、有名超能力者による念力(スプーン曲げ)が本当かどうかについて見解を述べさせていただきましたが、一方、念力・念動力といった能力の存在自体については大よそ信じていると記載いたしました。
今回は、その根拠となっている事例をご紹介いたします。
肥田春充氏の”正中心力”
明治から戦後に掛けて活躍された「肥田式強健術」の創始者である肥田春充氏は、幼少の頃から自身が病弱だったことで、医学、解剖学、生理学、衛生学、運動生理学などあらゆる面から科学的に、そして自身の体を通して実践的に強健を追及された人物で、正中心(丹田)に基づいた鍛錬法を確立していきます。
そして次第に強健を得、更に修練を重ねるにつれてどんどん若く健康な身体・頭脳になっていっただけでなく、遂には完全な正中心力を体得する(丹田を正しい位置・姿勢に持っていく)ことで、”宇宙と一体になる力”を手にすることになった人物です。
一見、宗教的・精神的な世界と受け取られそうな表現ですがそうではありません。
ではこの宇宙と一体になる力(注)とはどのようなもので、また本当に存在するのでしょうか?(注:肥田春充氏は著書の中で異なる表現を用いていましたが、わたしが嚙み砕いてこのような表現とさせて頂きました)
わたしは古武術研究家の甲野善紀先生の著書「表の体育 裏の体育(株式会社PHP研究所)」で肥田春充氏を知ることになったのですが、本著では、西洋科学思想に基づいた現在の学校教育等の”表の体育”に対し、日本の伝統文化を基に直感と体験によって打ち立てた民間の健康法・鍛錬法といった”裏の体育”を検討されており、その中で、肥田春充氏が体現されたことを”人間が持つ可能性”として紹介されています。
甲野先生は現代では失われたいにしえの術理を研究・体現されている方で、多くの著書を出版されメディアにも度々出演されており、ご存じの方も多くいらっしゃると思います。
(なお甲野先生のことは、以前紹介いたしましたみやわき心太郎先生の「牌の音ストーリーズ」で知るところとなり、多くの書籍・DVDを拝見いたしました。)
※身体の効率的な操作や、人間の潜在的な能力に関心を持たれている方は、是非一度、甲野先生の書籍や映像をご覧になることをお勧めします。
甲野先生とその術理の奥深いところは人体の内面(外から見えない所)の操作にあると思われますが、素人目に外から見える動きだけでも、「こんな動きが人にできるんだ!」と驚きとワクワク感を得られること間違いないと思います。
その甲野先生が”人間というものがいったい何なのかは実はまだ殆ど何もわかっていないのであり、依然として人間はブラックボックスとして包まれている宇宙の不可思議な生命体であることを幾分かでも感じ取って下されば”と仰っている通り、人体・そして宇宙には我々の想像をはるかに超えた力が潜んでいると考えられ、その想像を超えた力を唯一体現されたと思われる肥田春充氏を、氏の著書「聖中心道・肥田式強健術・天真療法」を引用する形で紹介されています。
以降、肥田春充氏が体現していたことを甲野善紀先生の著書「表の体育 裏の体育」より引用・もしくは参考させて頂く形でご紹介しますが、正確には肥田春充氏の著書「聖中心道・肥田式強健術・天真療法」、及び甲野善紀先生の著書「表の体育 裏の体育」をご覧になって頂きたいと思います。
(「表の体育 裏の体育」では、「聖中心道・肥田式強健術・天真療法」を常用漢字、現代かな遣いに改めて引用されていますので、まずは「表の体育 裏の体育」からご覧になると読み易いかと思います。)
【事例1】透視能力/予知能力
透視とは、目隠しなどによって視力で見えないはずの物が視える・分かるという能力ですが、氏は単に布などで目隠しするのでは無く、鉄板を円筒状にしたものを二重にして、それを布で覆ったものを被り(布の隙間から見えないようにしたのでしょう)、その状態で
①ふすまを隔てた隣の部屋にいる人が開いた本をすらすらと読み上げた
②(見えない位置の)500~600m先のバス停の模様や、時には外国の様子が見え、それは事が起きる前に見えることもあった
ということです。
①の事象は非常に高レベルな能力の事例ではありますが、見えないものが視えるという括りで捉えると、砂山の事例やトイレの個室の例などの延長線上にある気がしました。
わたしの場合は「在るか無いか」のレベルでしか分かりませんが、肥田春充氏は「どう在るのか」という事細かなレベルまで分かるということだと思います。
(なおそもそも目隠しが無くても見えない位置のものを観ていますので、目隠しはあまり意味が無いのかもしれません。)
しかし、②の「時には外国の様子が見え、それは事が起きる前に見えることもあった」の部分については、透視というより予知だと思います(もちろんわたしにその能力は無く経験もありません)。
※わたしの体験で言えばエレベーターの事例や、麻雀で来る牌が分かる事例などは一見すると未来に起こることが分かったように捉えることもできるのですが、エレベーターであれば感知した時には既にその基が来ることが決まっていたのかもしれませんし、麻雀においては次に来る牌は伏せられているので分からないですが、牌は山に既に積まれていますので、「見えないけれども既に決まっている現在の事象」が分かったということに過ぎないと思います。
【事例2】目隠しの状態でおもちゃの弓矢が必ず的に当たる
これは「牌の音ストーリーズ」の書籍紹介でも少し触れた事例ですが、子供が遊びで使う弓矢を使用し、【事例1】で紹介した鉄板を円筒状にした目隠しの状態で、的は射的で通常使用する円盤状のものでは無く、針金を立てたものを的にして必ず命中したということです。しかも同じ場所からでは無く移動して何回やっても命中したようなのですが、氏は「当ててから放しているのですから、必ず当ります」と言っています(射る前に当たることが分かっている、当たることが確信できた位置で射っている)。
目隠しで的に当てているということから、一見この能力は透視のように思えるかもしれませんが、ポイントは”子供が遊びで使う弓矢”(つまり、弓矢としての精度が高くないもの)で「必ず」当たるという所だと思います。
通常であれば、目隠しをせずに的が見えている状態であっても、まっすぐ飛ぶか分からないような弓矢で必ず当てるのは至難の業だと思います。つまり目隠しをしようがしまいが、視力に頼っていては必ず当てることは出来ず、透視ではない別の能力が必要だと考えられます。
わたしは同様のことを試した経験は無く、また試したところで到底このようなレベルには到達しないだろうと考えられるのですが、ただ”こういう状態ではないか”と推測できる感覚があります。
それは視力に頼らず感覚で的を捉えようとした時(ソナーで的を探索するイメージです)、感じていた違和感がスッと消える一点があるのです。もしかすると肥田氏もこれに類する感覚だったのかもしれません。
この違和感とは、第六感を鍛える方法(その1)でも図示しました”情報を感知する受信部”から”情報を統合・判断し行動に移す判断部”への情報伝達パスの「濁り・詰まり」だと考えているのですが、その一点を捉えた時に濁り・詰まりがスッと消えるのです(それ以外の場所を捉えると濁りが発生して”違和感”が残ります)。
さて、この回では念動力の事例まで辿り着きませんでした。続きは次回分でご紹介いたします。
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